2007年12月20日更新
ダイハツ九州大分中津工場は、前橋市から全面移転したダイハツ工業の生産子会社、ダイハツ車体の新本社工場。2006年6月に「車体」から「九州」へ社名変更した。
2004年12月に約400億円を投じた第一工場が操業を開始し、ダイハツの中津での車両生産が始まった。当初は年産15万台体制で従業員数は約1000人だった。生産が好調なことから工場は矢継ぎ早に設備増強と人員補充を行い、2006年秋には年産23万台体制で従業員数は倍増の約2100人に増えた。
2007年12月に約235億円を投じた第二工場が操業を開始し、年産46万台体制で従業員数は2500名に達した。第二工場は第一工場と同じ生産能力を持ちながら、建屋面積、設備投資額、工程数を大幅に削減した「軽自動車専用の工場」だ。
物流効率を高めるため、現在滋賀で生産して中津へ輸送するエンジンも2008年8月から久留米で生産する。九州山地の反対側にある久留米にエンジン工場の立地が決まったのは、東九州道が未開通なのに対して、中津と久留米は宇佐別府道路と大分道で結ばれているからだ。
大分中津工場は車両生産工場であり、プレス・車体・塗装・組立の工程を担う。2007年12月現在の生産車種は軽自動車のミラ、アトレーワゴン、ハイゼット(バン、トラック)。ダイハツはトヨタグループの一員であり、トヨタと共同開発した小型車ダイハツ・ビーゴ、トヨタ・ラッシュの生産も担う。
ダイハツの中津進出は1991年に遡る。この年、親会社のダイハツ工業が中津市への進出を正式表明し、5年後の1996年にダイハツ工業と中津市が立地協定書に調印した。時間を要したのはバブル景気崩壊による平成不況が原因だろう。
進出にあたっては、1999年に中津港を重要港湾に指定し、公共事業から455億円(中津港港湾計画、1989-2004)を投じて岸壁や航路などを整備した。生産子会社のダイハツ車体を内陸の前橋から臨海の中津へ移したのは物流効率を高めるのが第一の動機であり、港の整備は進出の条件だった。
ダイハツ車体は前橋市が1960年に誘致した企業だ。本社工場は前橋駅南西という市の中心部に立地し、市の生産出荷額の約14%を占めた。正社員950名ほか合計1260名が働き、下請けは68社、孫請けも相当数に及んだ。移転では異動に応じられない従業員が多数退職したほか、下請けは切って捨てられた。
前橋市や群馬県はダイハツ車体の撤退が「地元経済や雇用に重大な影響を与える」としながらも、打つ手立てがなかった。ダイハツは前橋撤退に際して地元と事前協議を行わなかったため、前橋では大きな遺恨を残した。ただ、前橋は製造業の強い土地柄で、ダイハツを失ったくらいで屋台骨までは傾がない。
進出からわずか3年で年産46万台体制の大工場に躍進したダイハツ九州だが、課題もある。中津移転のもう一つの動機だった人材確保がうまくいっていない。小さな城下町に裾野の広大な自動車産業がやってきたものだから地元では人を集められず、結果として業務請負に頼りきっている。
東九州自動車道の未開通も想像以上に厳しかった。ダイハツ九州の東迫旦洋社長は折にふれ高速道路の建設を訴える。「設備故障の復旧に時間がかかるのが一番困った。北九州市にある設備メーカーが来るのに2時間。高速道路がないとどうしようもない」(大分合同新聞)。
ダイハツ九州は大分県に立地するため、北九州地区との情報共有がうまくいかないのも問題だ。産業構造が同一の大分県と北九州地区は東九州と北大経済圏の発展のため協力しなければならない。北大が鉄の結束で結びつかなければ、西九州に自動車産業を誘致したい福岡県がつけこんでくる。
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