2005年12月30日更新
メイト黒崎は、黒崎駅東地区第一種市街地再開発事業による大型複合商業施設。北九州市が初めて行った市街地再開発事業で、事業主体は対象地の地権者らが結成した黒崎駅東地区市街地再開発組合。事業は1974年に都市計画を決定し、1979年に建物が竣工、1981年に再開発組合が解散と迅速だった。
下関地区の都心対抗策がシーモール下関(1977)なら、黒崎地区の都心対抗策がメイト黒崎で、両者は当初非常に成功した。特に黒崎地区はこれを契機に北九州最大の商業面積を有す大商業地区にのし上がった。しかしその後の小倉地区の巻き返しや地場経済の衰退から、黒崎の繁栄は長く続かなかった。
核店舗の黒崎井筒屋は、2000年にそごう本体が経営破たんして黒崎の店も閉めたため、地元政財界の要請を受けて最寄の八幡井筒屋を畳んで入居した。後に増床を行い、旧そごうを上回る売場面積2万8930㎡の大型百貨店になった。現在の黒崎で筑豊や遠賀・宗像からも集客できるのは井筒屋だけだ。
ただ、井筒屋は小倉の印象が強すぎるのか、地元ではかつての核店舗、黒崎そごうを愛惜する人が多い。そごうの立地は黒崎が全国区の商業地であることの証であり、小倉とは対等の関係だという自負のよりどころでもあった。黒字店舗にもかかわらず閉鎖されたことも、わだかまりとして残る。
黒崎そごうは売上が低落する中で設備投資を控えるなどして黒字を計上してきたが、遅かれ早かれ赤字転落する見込みだった。また、黒崎そごうが黒字といっても、小倉そごうの大赤字を埋めるには不十分だった。このため、両者抱き合わせでは赤字という判断の下、そごうは小倉とともに黒崎も切り捨てた。
メイト黒崎は1核2モール式というめずらしい型の商業施設だ。駅前側の黒崎井筒屋を核店舗とし、東側(奥)に専門店街のメイト黒崎、メイトエンポリアムが入る。2モールの実態については投稿記事が詳しい。
メイトエンポリアムはジャスコ(そののち業態変換しフォーラス)が撤退後、ビル管理会社のメイト黒崎が某コンサル会社の指導の下にファッションビルを模倣したモノ。
黒崎そごう撤退後、破綻寸前に追い込まれたメイト黒崎は当時の片岸社長が退任し、当時の北九州商工会議所会頭で副都心黒崎開発推進会議の会長を勤める高田賢一郎氏が就任。地元銀行三行(当時)等の支援の下、旧黒崎そごう跡地を買取り、井筒屋を核テナントとして入居させた。
井筒屋も多額の有利子負債を抱える状況下、前役員をメイト黒崎に送り込み、メインバンクを福岡シティ銀行(当時)から福岡銀行に変更させ、メイトビル全体の経営およびビル東側の営業もサポートし、事実上、井筒屋による営業がスタートした。
その時点で、メイトエンポリアムも事実上解体され、ビル東側をメイト専門店街として再出発したが、資金的に屋上塔屋部分までは手が回らなかったようで、店内の案内板やチラシのみ変更に終わった。
その後、チラシや店内案内はクロサキメイトと表記されているが、屋上塔屋は依然、変更になっていない。2005年の正月はテレビスポットも流すなど積極的な販促も行っていたが、当初、井筒屋および福岡銀行から送り込まれた役員も転任、その後それぞれ他の人材を送り込んだが、各テナントの状況も厳しく、空店舗も増えている。
マックアビー、カトレアサック、サリア・ラトカーレなど黒崎の有力専門店を抱えるビルだけに、シーモール下関のテナント戦略を参考に、井筒屋と共に黒崎の集客装置としての再生に期待したい。(2005-12-23)
そごうの建物は駅前に現れた「戦艦」と形容された。開業当時の宣伝文句は「まるで宇宙戦艦! 黒崎そごう」。駅前の正面は敷地の制約から小さいが、国道3号沿いに236mもの奥行きがあり、単独の建物としては当時日本一の長さがあった。壁面処理は商業建築らしく装飾的だが、合理主義の時代に特有の単調で幾何学な図案を用いる。
表玄関は2階にあり、同時期に整備された黒崎駅前の空中地盤と連結する。当時は空中地盤も2階玄関も九州初登場であり、これまでの常識を覆す新しい時代の商業施設として世間の耳目を集めた。なお、この空中地盤は建物の国道側に設けた幅員4mの遊歩道に連絡し、場末感ただよう建物裏(東側)の藤田三丁目交差点の十字型歩道橋まで伸びる。
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