2005年11月22日更新
文豪・松本清張(1909-1992)は大器晩成型の作家として知られる。清張は無学歴かつ地方在住だったため、自らの実力を世に問う機会がなかった。大器晩成というよりは単に出遅れただけだ。建築家の村野藤吾もそうだが、北九州には英才教育とは無縁の「出遅れた天才」が多い。
清張は印刷工ながら朝日新聞西部本社勤務で、東京との接点があったために市井の人としては終わらなかった。北九州で過ごした前半生は悪い境遇にあったわけだから、北九州に対してよい感情は持てなかった。清張は1953年に第28回芥川賞を受賞し、東京本社へ栄転して二度と北九州へは戻らなかった。
松本清張記念館の建設運動は清張が死去した月に、北九州青年会議所を中心に始まった。同年11月に末吉市長が松本家を訪問して協力を依頼し、同年12月に誘致建設委員会を設置した。翌年5月に松本家より三つの条件付で全面協力を取りつけた。三つの条件とは、
北九州に記念館設置が決まったのは、清張が前半生を北九州で過ごしたという事実もあったが、政令市の直営施設となれば豪華施設が建設できるという期待があった。比較検討された岩国市の宇野千代記念館は、約1/3の投資(約9億2000万円。土地代含む)に対しても賛否が割れて、結局は計画を白紙撤回した。
建物は地下1階から地上2階まである四角形の本体部分をLの字の取付部分が塀のように囲う形状をしている。表通り側は珪藻土を塗り込めた土壁の上に、片流れの瓦葺きが重重しく被さっているように見える。
異様に見えるのは、片流れ(実際は招き屋根で玄関部分は切妻)が角を丸めて連続しているからだ。日本人にとって和風は伝統であり、新奇を衒うことは少ない。和風建築は直線主体という思い込みがある。これは外国人が手がけた建築のようだ。
小倉城の石垣側は地階を露出させて箱庭をあしらう。地階部分の壁は城址石組みに合わせて野面積みで処理し、あたかも城壁に記念館のための場所がはじめから用意されてあったかのような連続感を持たせる。1階は塀のような閉じた構造だが、壁と石垣しか見えない地階は開口部が連続する。
地階と1階を取り替えれば経済的には違いない。しかし思索の空間演出と考えればこのほうがよい。窓は外界との接点であり、光や風、景色が暗示される。窓はより広い世界への憧れを孕んでいる。この憧れを明示的に裏切ることにより、意識は外界を遮断して内なる思索へと向かう。
内部は清張文学のすべてを分かりやすく紹介した「松本清張の世界」、松本清張の東京の自宅を清張が死去したその時の形で移築した「思索と捜索の城」、そのほか企画展示室、映像ホール、情報ライブラリなどからなる。建物は2000年の第41回建築業協会賞(BCS賞)を受賞した。
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Matumoto Seityô Memorial Museum