2008年04月06日更新
旧門司三井倶楽部 本館(迎賓館)
旧門司三井倶楽部 付属屋(管理人住宅)
北九州市旧門司三井倶楽部は、門司港駅前に移築された旧三井物産門司支店の社交倶楽部。現在は北九州市の観光施設で、館内には関門ゆかりの作家・林芙美子の資料室、アインシュタイン夫妻が宿泊した部屋を再現した「アインシュタイン・メモリアルルーム」ほか、和洋レストラン「三井倶楽部」、日本料理「ラ・ムエット」、割烹「まんねん亀」などがある。
竣工時は南向きの建物で、本館1階は広間を中心に、食堂、応接間、客間。2階は居間、寝室、浴室。本館裏に張りつく付属屋は管理人や使用人の住宅だった。さらに敷地北側には支店長の住宅(現存せず)があったという。戦後は2階の寝室が和室になったり、付属屋の炊事場が拡張されたりしたが、門司港駅前への移築・復元では改造前の姿に戻した。
本館はアールデコ調のペンション。外壁を灰色のモルタル洗い出しで仕上げ、急勾配の三角屋根を複雑な構成で乗せる。白い窓枠と茶色のハーフティンバーの対比が美しい。緑濃い山の手にあればきっと映えたろう。山麓のペンションが「西部」の中枢拠点・門司港駅前に立地する違和感は相当なものだ。これを移築するために門司港駅前の業務集積が薙ぎ払われた。
移築には門司港駅と旧門司三井倶楽部という二つの国重要文化財を相対させ、もって観光の目玉にする狙いがあった。加えて、道路向かいの旧三井物産門司支店と相対させる狙いもあったろう。旧門司三井倶楽部が松田昌平の設計なら、旧三井物産門司支店は弟の松田軍平の設計だ。松田兄弟が三井物産のために設計した建物が二つ揃ったというわけだ。
門司三井倶楽部は元から門司港駅前にあったのではなく、1921年に山の手の谷町で築かれた。谷町は東西を小山に挟まれた山間にあり、当時、住環境良好な新興住宅地として三井物産が社宅開発した場所だった。旧三井物産社宅(現存せず)や旧菱和荘(現カボチャドキア国立美術館)なども谷町にあった。
1922年11月17日、門司三井倶楽部に宿泊したアインシュタインは、第二の故郷スイスへ帰ったようだと喜び、裏山に登ったり港を散策したりして休暇を楽しんだという。「できることならここに永住したい」と世辞まで言ったそうだ。
三井物産は戦後の米国占領軍(GHQ)の占領政策によって解体され、門司からの撤退を余儀なくされた。空き家になった門司支店や門司三井倶楽部は1949年に国鉄が買い取った。前者は鉄道省門司鉄道局が国鉄西部支社と名を改めて移転入居し、後者は門鉄会館と名を改めて国鉄社員の宿泊施設とした。
38年後の1987年、国鉄分割・民営化に伴い門鉄会館は整理対象となり、国鉄精算事業団に所有権が移った。老朽化した建物の評価額はゼロであり、建物を解体撤去して土地を換金する運びとなったが、解体するには惜しい建物だということで、1990年に北九州市が無償で建物を譲り受けた。北九州市が取得したのは建物のみであり、移築が条件だった。
1988年に門司港駅の駅舎が鉄道駅としては初めて国重要文化財に指定された。北九州市が門鉄会館の取得に動いたのは、門司港駅の大人気を目の当たりにして大正建物の商品価値に気づいたからだった。
しかし当時の北九州市には文化に金を出す素地がなく、門鉄会館に公的資金を注入するためには、万人を納得させる大義名分が必要だった。一方で門鉄会館が文化財としての価値を有するという認識が文化庁にあり、就任したばかりの末吉興一市長が一計を案じた。
北九州市は1988年に自治省が創設した「ふるさとづくり特別対策事業」に目をつけ、「門司港レトロめぐり、海峡めぐり推進事業」を策定した。これが門司港を観光の街へ変貌させた門司港レトロ事業の事始めだ。文化庁は門鉄会館の本館と付属屋を国重要文化財に指定(倉庫は指定外)した。
かくして移築費用を自治省の助成金で賄い、木造建築の防火地域への立地は文化財ということで建築基準法の適用除外になった。建物の復元は国重要文化財だから文化庁が費用の大半を負担した。旧門司三井倶楽部の移築は、「自己負担は最小限、国庫補助は最大限」を実現した末吉開発行政の原点だった。
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