2008年10月7日更新
幾何学模様は後年の改装か
正面 背景は皿倉山
村野藤吾(1891-1984)は北九州とはゆかりの深い人だ。佐賀県唐津で生まれ、北九州・八幡で育った。小倉工業高校機械科を卒業後、八幡製鐵に入社。このままなら工員として人生を全うしたはずだが、その後に転機があった。
徴兵されて知識階級の人間と接する機会を持ち、学問に目覚めた。ちなみに門司港在住の作家、佐木隆三も八幡製鐵の出身。八幡製鐵には労働者として就職した後に転機を迎えた人が少なくない。
除隊後に早稲田大学へ進学し、やがて建築に興味を持った。20代半ばを過ぎたころだ。卒業後、渡辺節建築事務所で11年下積みし、1929年に自らの建築事務所を開設した。その後の活躍は目覚しく、昭和を代表する建築家と賞賛されて亡くなった。
都会に憧れて東京へ移った村野だが、八幡駅前の戦災復興土地区画整理事業では主要な役割を担った。駅前の平和ビル第一棟(1954-2002)を手始めに、市立八幡図書館(1955)、市立八幡市民会館(1958)を設計し、八幡駅前の景観形成の方向性を決定づけた。後に福岡ひびき信用金庫本店(1971)も設計した。
北九州市立八幡図書館は、旧八幡市が中央図書館として設置した建物。現在は北九州市立図書館の地区館と位置づけられる。コンクリート打放しの柱梁を目立たせ、枠内には煉瓦タイルを張った外観は、村野建築の常套だろう。
窓は2階と3階を上下の組にせず、横にずらして波型配置とした。1階は玄関のみのピロティ。横浜市庁舎(1959)によく似ている。軽快な印象を受けるのは、淡い色の煉瓦タイルと、丸や三角の幾何学模様のせいか。
ただ、この幾何学模様は気になる。丸は白塗りの板を張りつけただけだし、三角模様は煉瓦タイルを白く塗っただけだ。あまりにも安易な処理ではないか。建築に費用を惜しまないことを信条としたかれがこんな処理を行うはずがない。
コンクリート打放し部分は現在、白く塗装されている。塗料を検分したところ、柱梁と煉瓦の白塗り部分の経年変化は同じに見える。補修時に子供受けを狙ってだれかが手を加えたと考えるのが妥当だろう。
2005年5月30日作成
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