2005年09月25日更新
東京製綱小倉工場は明治39(1906)年、関門港小倉区砂津泊地に面した臨海工業用地の高浜一丁目(地図)でワイヤロープの製造を始めた。同社最古の工場は明治31年開設の深川工場(東京都江東区)になるが、大正12年の関東大震災で焼失したため、小倉工場がもっとも長い歴史を持つ。しかし小倉工場も設立百年の祝福を受けることはない。同社は2003年3月をもってこの工場を閉鎖し、跡地は更地に戻した上で売却する方針だという。
事務所は一見すると廃屋のようだ。窓から中を覗くと現在も利用されていることが分かる。近代化黎明期は建物から生産設備までの一式をヨーロッパから輸入したものが多いが、この建物は軒が大きく張り出し、土台の風通しを確保するなど日本の風土に合わせた工夫がみられ、外国で買いつけて現地で組み立てただけとは思えない。
小倉から門司港にかけての関門海峡沿いは伝統的な赤煉瓦の工場建築が多い。これは、この地域の産業が官営八幡製鐵所から派生したのではなく、時を同じくして成立した証である。八幡製鐵が地域の盟主として君臨してからは、白い鉱滓煉瓦を用いた建築物が目立つようになった。
鉱滓煉瓦は八幡製鐵が生産工程で出した残滓を再利用して造ったもので、八幡製鐵本事務所(二代目)がこれを建材とした代表作だった。しかし鉱滓煉瓦は赤煉瓦と比較すると耐久性で劣るらしく、現在では軒並み撤去されて残存する建物は少ない。
なお、煉瓦造りは関東大震災で水平の揺れに弱いことが露見し、北九州でもその後は廃れた。
煉瓦造りらしく装飾が多い。玄関上の飾りバルコニーと、その上の屋根をやや持ち上げて設けた切妻破風が目を引く。窓は木組みの上下窓で、一階窓が煉瓦造りの定番・櫛形アーチなのに対し、二階窓は上下に石の飾りをあしらう。玄関左上はバルコニーのようだが、窓の形状や手すりの不在からいって利用できる空間ではあるまい。
正面全景。建物の東側に当たる。棟木の両側に空を差す剣のような飾り、屋根の四隅には丸い飾りが見える。煙突もある。建物の延床は300㎡程度か。
南側全景。10mほど隔てて冴えないトタン張りの主力工場がある。窓を二つ潰して大穴を空けた部分に扉をつけ、以前は一階から工場へ廊下を渡していたのだろう。
北側全景。二年後に同じ意匠を用いて増築した部分があったそうだが、あっさりと撤去された後だった。増築といってもこちら側は壁を穿ったのではなく、外付倉庫だったらしい。
西側北半分。この事務所は手入れという言葉を知らなかったのではないかと疑うほど傷みがひどい。百年前の建物はもっと大事にされているものだ。もっとも、それらはとうに隠居して静態保存されているのであって、現役の事務所として利用されているのではない。汚れた外壁にそっと触れて、わが国の近代産業発祥から今日までの歩みに思いを馳せるにはいい。
事務所とともに建設されたらしい切妻屋根の二連煉瓦倉庫。規模は北九州では小規模な部類に入る。倉庫には窓がないのが普通だが、この倉庫は妻側に9枚ガラスの窓を三つも持ち、屋根の傾斜に合わせて上下にずらして配置する。ちなみに手前の巻取りは直径が1m以上あり、危ないので面白がってむやみに転がしてはいけない。
この角度から見ると、屋根も竣工当時そのままのようだ。戦前の倉庫は外壁がそのままでも屋根は空襲で被弾するなどして乗せ替えたものが多く、それがトタンだったりすると興ざめする。この倉庫は申し分がない。
倉庫はトタン張りの主力工場がある東側の平に扉が二つある。煉瓦を三角屋根に削り取って設けた庇が荒荒しく、開口部にえもいわれぬ立体感を与える。地上面の正式な開口部はこの二つのみである。丈夫そうな扉を見ると、なにを大層にしまってあるのかと気もそぞろになるが、門外漢のわたしには価値が分からないものだろう。
北側全景。後に増築されたらしい部分がやはり撤去されたと見える。本体に手をつけないのは、修復保存してくれる引き受け手を探しているからか。
倉庫は事務所や住居、生産設備と違って水まわりや配管などの建物を傷める要因が少なく、しかも頑丈に造ってあるので劣化の進行は遅い。この倉庫もまだまだ使えそうで、物販店舗などへの転用も可能だろう。貧弱さ抜群のプレハブや10年で償却するハリボテよりどれだけましかと思う。二十世紀の戦禍と風雪を刻んだこれら父祖の遺産が、なんのためらいもなく撤去されるのであれば寂しい。
撮影 2003年3月27日 | 初稿 2003年3月28日
Tôkyô Rope Kokura Factory