2011年3月19日更新
新下関駅東口 2006年9月
新下関駅東口広場への進入路 2006年9月
新下関の目抜き通り、県道259号新下関停車場稗田線 正面の高架が山陽新幹線 2006年9月
1970年代の都市計画の産物 地下道 2006年9月
新下関駅南口(タクシー停車位置) 2006年9月
南口の目抜き通り 正面の高架が山陽新幹線 2006年9月
自動車の目: 新下関駅東口~ゆめシティ 直リンク 2010年3月
JR新下関駅は、下関市勝山支所にあるJR山陽新幹線とJR山陽線の旅客駅。形式は新幹線が島式・相対式乗り場2面3線の高架駅、在来線が相対式乗り場2面3線の地上駅。両者はXの形で立体交差する。2004年の乗車人員(降客含まず)は4962人/日。下関市の拠点駅となる下関駅へは山陽線経由で2駅、時間にして8分程度。
立体交差駅は市街地を4分割するため、駅前の市街地が乱雑になりがちだ。しかし新下関駅は折尾駅のように明治時代から立体交差していたのではなく、1975年の山陽新幹線開業によって立体交差駅になった。同時期に新下関駅周辺土地区画整理事業を実施し、比較的すっきりした新市街地を形成する。
南北に横たわる新幹線高架駅の北側に東口と西口がある。東西口は表裏の関係にあり、表玄関となる東口広場は折尾駅と同じ掘り込み式だ。進入口は県道255/259号のT字交差点。西口には簡単な車寄せがあるだけで、駅前の体裁ではない。
東口広場に面して結婚式場 マリエ・ド・クールと、パチンコ屋 新幹線プラザがあるが、平面駐車場のほうが目立つ。車社会では市民は鉄道駅に用がない。郊外の新幹線駅は空港のような場所で、日常生活ではまず立ち寄らない。加えて東口広場は袋小路なのだから、駅前の土地に人気がないのは当然だろう。
目に留まったのは3箇所に設けられた地下道か。まっすぐ歩いてゆけるところに上り下りを加えるのは通行の障壁にほかならない。この1970年代の都市計画の産物は、今日では街に死角をつくる防犯上よろしくない存在だ。市民は道路上を横切っているのだから、横断歩道を引いて、地下道は埋め戻したほうがよいのではないか。
新下関の街の賑わいは県道259号沿いにある。駅付近の沿道には中小の業務ビルや高層マンションが並ぶ。西方向へ車を走らせれば沿道に各種の郊外店舗が立ち並ぶ。2009年11月に東口から車で3分程度の位置にある新下関西地区でゆめシティが開業してからは、新規出店が相次いで下関屈指のロードサイド街になった。
南口は東西に横たわる在来線地上駅を新幹線高架が北から南へ越えたところの高架下にある。出入口は高架東側。南口と東西口は全長約200mの連絡通路(うち、65mが歩く歩道)が結ぶが、あちらへ出かける必要はない。南口の真上が新幹線乗り場だ。乗り場がともに近いという意味で、東西口より南口のほうが表玄関にふさわしい。
しかし駅前は商店の類いもなく殺風景だ。新幹線高架横の区画道路を南下して、在来線と並行する目抜き通りまで行けば、店舗付のマンションなどが建ち並び、駅裏の場末という印象が薄れる。新幹線駅が開業する以前の長門一ノ宮駅時代は、こちらが街の顔だった。東亜大学や下関国際高校の電車通学生は南口を利用する。
現在の下関市は1市4町による対等合併で発足した。市役所は合併協議会の付帯決議により新下関に設置することになっていた。結局、中尾友昭・新市長が強権発動で市役所移転を阻止したが、移転推進派は「新下関地区が市全体の中心になる」と主張し、市役所の移転に止まらず、旧市内の都市機能を順次移転させたい考えだった。
下関市は旧市内、長府、小月などの市街地が地形によって分離され、都市としての一体感に欠ける。移転推進派はだからこそ旧市内と山陽地域、山陰地域の結節点となる新下関に都心をつくるのだと主張したが、人口減少社会の現実が見えていなかった。2005年の国勢調査速報によれば、新・下関市は人口減に加えて世帯数も減少した。
北九州市の人口集中地区は1965年から2000年の35年間で約2倍になった。世帯数が約1.5倍に増え、世帯主収入は約10倍になった。世帯の増加は家屋の数を増やし、収入の増加は一戸あたりの占有面積を広くする。ただし人口が漸減しているため、人口密度は半分に希薄化した。
人口が減少しても世帯数が増加しているうちは、都市を物理的に拡大することが可能だ。世帯減に転じては、もう無理はできない。新下関に都市機能を移転すれば、希薄化した既存市街地に穴が開き始める。拡大志向の郊外開発を見直さなければ、下関市は散り散りに分解して小集落散在の状態へ帰る。
2006年10月21日作成、2011年3月19日更新
©2011 ガゾーン 転載自由。著作権は関門通信またはその情報提供者に属します。
JR Sin Simonoseki Railway Station