2007年03月16日更新
麻生飯塚病院はさまざまな意味で目立つ存在だ。第一に病床数1116床は筑豊を含む関門北九州地方でもっとも大きい。第二にその巨大病院を株式会社が経営する。第三にその株式会社が麻生太郎大臣を輩出した麻生家の事業だ。
「病院経営への株式会社参入」という言葉が一人歩きし、麻生飯塚病院はあらぬ嫌疑をかけられるが、株式会社経営の病院は以前から存在した。JR九州病院や宇部興産中央病院も株式会社が経営する。企業内病院を前身とし、後に一般開放された病院は昔から株式会社の経営だった。
麻生飯塚病院の歴史は古い。明治末年、筑豊には公的な医療機関が存在しなかった。嘉穂郡会は郡立病院の建築を議決したが、多額の建設資金や医療技術者の確保などの問題で躓いた。そこで、麻生太吉が地域貢献の一環として郡に代わって病院を建設することを申し出た。
病院は1910年に竣工したが、郡医師会の抵抗にあって門扉を閉ざしたまま8年が経過した。1918年に麻生は個人事業から株式会社へ移行し、1919年に企業内病院として診療を開始した。一般市民に開放されたのはその翌年の1920年で、病院経営への株式会社参入が取り沙汰される80年以上前だった。
麻生飯塚病院の診療科目は35科・部。2005年には地域医療支援病院に指定された。筑豊の中核病院であるとともに、1565名の従業員を擁す飯塚市最大の職場でもある。
病院は順次増築して規模を拡大した様子で、建築物は統一されていない。正門前にくたびれた古い3階建てがあり、その背後に現在の主力となる高層病棟が聳え立つ。さらにその裏に最新の救命救急センターがある。
病院の立地する芳雄町は麻生関連の施設が集積する町で、麻生系列のビジネスホテル、スーパー、超大型駐車場などがある。麻生の飯塚における存在感はいまでも抜群といえるが、麻生グループは飯塚を見切って主要機能を福岡へ移した。
企業が強い土着意識を持たなければ地方の時代はやってこない。多極分散のアメリカでは本社移転は地域に対する背徳行為であり、「経済の原則」などという言い訳では到底容認されない行為だ。
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