2008年11月9日更新
徳力地区は平野部と山の手で開発手法が異なる。平野部は徳力団地(1969)の建設と、それに続く徳力土地区画整理事業(1973-1999)の実施によって計画的なまちづくりがなされた。平野部は紫川蛇行部の肥沃な農地だったから、開発に先立って権利関係を整理する必要があった。
山の手では1960年代後半から100m級の里山を切り崩して一戸建て団地を切り開いた。最初に山全体を削って均せばよかったろうが、虫食い開発したために土地の起伏が大きい。急な坂道が多く、地区を貫く大通りもない。開発が本格化したのは1980年代以降だが、乱開発ぶりは戦後復興期に切り開いた中心市街地の高台と変わらない。
平野部が田んぼで丘陵地に住宅団地というのが日本の典型的な郊外の風景だ。徳力地区も先に開けたのは山の手だった。山の手が飽和した1990年代に徳力土地区画整理事業の換地処分が本格化し、開発の最前線が山から里へ下りてきた。従って、交通利便性の高い場所ほど物件が新しいという一見あべこべな現象が見られる。
守恒では1979年10月に徳力サティが開業し、翌1980年7月に徳力アピロスが開業した。両者は郊外型ショッピングセンターの走りであり、開業当時は北九州最大級の規模を誇った。いまでいえばイオンモール直方が二つ出現したようなものだ。郊外店自体がめずらしい時代にあっては衝撃的だった。
二つの巨大商業施設は国道322号から山の手へ入る要所に陣取り、守恒は山の手の玄関町と位置づけられた。郊外の開発は全体計画が先にあるため拡張性に乏しい例が多いが、守恒では二つ商業核を足場にして、商業地や住宅地がアメーバ状に増殖した。街に賑わいがある反面、乱開発ゆえに道路などの社会資本は貧しい。
1985年にモノレール小倉線が開通して守恒駅が設置され、これに伴って国道322号バイパスが開通した。以降、守恒は至れり尽くせりの郊外として、住宅を求める市民の絶大な支持を集めた。しかし町の中心が区画整理された場所へ移ることはなかった。換地処分のころにはもう町が出来上がっていたからだ。
区画整理された好立地は宅地としては地価が高く、地主は家族向けの賃貸住宅を建設して大量に供給した。やや高めの家賃設定もあって、物価高の三大都市圏から家族を連れてきた転勤者ばかりが住み着くようになった。現在では守恒の平野部は「転勤者の町」として知られる。
守恒の街路は南北軸の国道322号バイパスと、東西軸の守恒大通り(仮称。守恒駅南側の4車線道路)が骨格をなす。開発手法で大雑把に分類すれば、旧国道322号の東側が乱開発の産物、西側が区画整理の産物だ。
区画整理された一帯は平明な街区を形成する。乱開発された一帯は、戦後復興期に乱開発された斜面地のように自動車の進入を許さないほど出鱈目ではないが、一方通行や行き止まりが多々あり、初訪問で迂闊に入り込むと道に迷う。
土地利用では旧国道322号から山の手に入る2車線の主要幹線道路沿いに商業地が開ける。守恒駅のある国道322号バイパスは場末だ。主な物販店は、前出のアピロスとサティのほか、ナフコ、グッデイ、ベスト電器、デオデオなど。その他ではセガ・ハイパーメッセ、コナミスポーツクラブ徳力などがある。パチンコ屋はない。
商業地のめぐりは、紫川の川べりから断崖絶壁の上まで住宅が立ち並ぶ。乱開発された斜面地は分譲団地や一戸建て、区画整理された一帯は賃貸のマンションやメゾネットが多い。単身者向けの物件はあまり見ない。ワンルームや安アパートは北九州市立大学のある北隣の北方に多い。
徳力地区は国道322号沿いを除いて、住宅開発を誘引しつつ、商業開発は抑制したいという意図が用途地域から見て取れる。幹線道路沿いに第一種住居地域を設定する一方、内側の街区は第一種中高層住居専用地域だ。準工業地域は存在しないから、小倉東インター地区のように意図しない大型商業施設が出現する可能性は小さい。
2007年9月17日作成
平日の夕方。紫川河畔公園を発着点として、1990年代に区画整理された平野部と、1970-80年代に乱開発された丘陵部をめぐる。幹線道路で一筆書き行程を描けなかったため、一部区画道路を通る。
2007年9月12日撮影
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Moritune Neighborhood, Kitakyûsyû