2009年11月02日更新
戸畑は明治時代の中頃まで漁業と農業の寒村だった。1880年に洞海湾の中の島(1940年除去)に初めての工場が建設され、産業都市として歩み始めた。1889年に中原村と合併して10年後に町制施行、1901年に八幡製鐵所が八幡村で操業を開始してからは関連企業の進出が相次ぎ、1924年に市制施行した。
八幡製鉄所は1958年に戸畑製造所を発足させ、このころ戸畑の市街化率が100%に達した。戸畑は碁盤の目の街路を基本として、かつて戸畑駅前だった中本町交差点を中心に南北軸の道路をやや扇状に変形させ、半放射環状型の都市形態を取る。九州工業大学と夜宮公園が都市外縁の緑地帯になる。
戸畑の都市計画は二方向が海で後背地がないという立地の弱点を克服しつつ、中本町界隈に求心力が働くように設計されている。道路の線引きや用途地域の設定、緑地帯の配置などは現在でも古さを感じさせないが、戦前の都市計画だから八幡の戦災復興計画と比較すると、街路や町割りの小粒さは否めない。
現在、戸畑では1997年策定の「戸畑まちづくり構想」に則って老朽化した都市基盤の更新を進めている。街路では幹線10号、旧電車通り、浅生通りの整備が完了、街区では戸畑駅周辺地区の再開発が完了、今後は戸畑C街区を皮切りに、仕上げとなる戸畑区役所周辺地区の再開発を進める。
戸畑の本来の商業地は浅生交差点を中心として、旧電車通りと浅生通りを目抜き通りとするが、戸畑駅周辺地区の再開発により戸畑駅南口に街の重心が移りつつある。
旧電車通りは、1985年に廃止された西鉄枝光線の大通りだ。車道を掘り起こして舗装しなおし、歩道に舗装用ブロックを敷き詰め、電線類を地中化した。路面電車の面影はもはやどこにもない。地区内の補助幹線道路だから通過車両の流入が少なく快適な沿道環境だが、人通りもめっきり少なくなった。
浅生通り(中央通り)は、県道271号下到津戸畑線の中本町交差点から戸畑C街区までの区間を指す。戸畑駅前周辺地区と戸畑区役所周辺地区を結ぶ目抜き通りとして2002年に拡幅し、電線類も地中化した。ただ、現状は戸畑区役所周辺地区の整備が完了しておらず、人の流れは戸畑駅前に滞留して、浅生通りには流れてこない。
幹線10号(県道八幡戸畑線)は、戸畑駅周辺地区の東側を南北に通る。かつては通り抜け専用の産業道路だったが、駅前再開発に伴う旧電車通りと浅生通りの地盤沈下に加えて、沿道に開発余地があったため、郊外店舗やマンションが立ち並び、近年賑わいを増している。いかにも郊外な街並みは、下曽根のような雰囲気だ。
浅生通りからJR鹿児島線のガード下を潜り抜けると、戸畑北口地区に入る。戸畑北口は産業都市としての母胎であり、若松の石炭財閥を迎え入れた戸畑の玄関であり、日本水産の遠洋漁業の基地として、1977年以降に各国で排他的経済水域が設定されるまでは、独自の領域を持っていた。
三方を海に囲まれ、背後は鉄道線で塞がれた閉鎖地区にもかかわらず、町工場や商店、一戸建てやマンションが雑然と立ち並び、街に厚みがある。ガード下からの動線は戸畑北口の中心を貫く。最盛期は明治町が栄えていたそうで、平時でも祭りのように賑やかだったという。
2007年8月25日作成
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