2008年9月14日作成
若松は1891年の筑豊興業鉄道開通により興った。筑豊興業鉄道は筑豊炭田と若松と鉄路で結び、若松を筑豊の玄関にして石炭の積出港として大躍進させた。若松港の貯炭量は1940年に最盛期を迎え、筑豊の「日本一の石炭産出量」を下支えしたが、戦後は石油が台頭して石炭の斜陽化が進み、1976年に筑豊炭田がすべて閉山、若松もその役目を終えた。
その後は洞海湾によって隔てられた半島という立地条件が災いし、北九州市の都市再編の波にも洗われず、取り残された地区になった。変化は総事業費1750億円を注ぎ込んだ久岐の浜住宅市街地総合整備事業(1986-2005)からだろう。次いで若松南海岸の水際線が公園化され、洞海湾の静かな海岸に面した風光明媚な近郊住宅地として再生しつつある。
半島であることは負の側面ばかりではない。三方を海に囲まれ後背地がないことから、郊外が発達する余地がなく目立ったドーナツ化現象は起きなかった。他地区への流出人口も小さいことから、本町界隈の古い商店街はそこそこ賑わっている。商店街がいまだ形を保っているという意味で、郊外商業が袋叩きにして息の根を止めた副都心・黒崎よりはマシな状態だ。
若松は地区のど真ん中に当時東洋一の規模を誇った若戸大橋(1962)が横たわり、橋を慕うように繁華街が寄り添っている。ちなみに彦島も彦島大橋のたもとに繁華な場所がある。西端のJR若松駅は元貨物鉄道であり、路線は都心と連絡しないため、利用者は少ない。人を吸い寄せるのは、むしろ東端にある若戸渡船の若松渡し場だ。
計画都市だから町割りは整然としている。街路の骨格を成すのは若戸大橋下の東西軸をなす平和大通りと、地区を南北に貫く中川通り。かつての中川通りは目抜き通りなのに貨物専用の路面電車が我が物顔で走り、市民に呪われていた。表通りを車で流しても冴えない印象だが、区画道路沿いにウエル本町商店街、エスト本町商店街、明治町銀天街、大正町商店街ほか、横丁や市場も健在で、街の奥行きは深い。
若松南海岸通り(愛称エルナード)は近代港湾都市に固有の帯状の都市空間(バンド)を形成する。沿道の陸側には石炭景気に沸いた大正期の近代建築が並び、海側には凝った遊歩道を設ける。洞海湾は内海ゆえに荒れる心配がなく、川のように増水することもない。街なかに海を取りめる場所は稀だろう。バンドの本来の景観を残すのは日本でここだけだという。
若松駅から街の外周をぐるりとめぐって北上する国道495号は若松の新しい骨格をなす。若松の弱点は北湊地区や響灘臨海工業団地の殺気立った産業車両がこの国道495号を通って街なかに進入することだが、新若戸道路が開通すれば産業車両は北湊から戸畑へ直接抜ける。穏やかな生活環境が実現すれば、今後まちづくりの幅が広がる。
2008年9月14日作成
戸畑から若戸大橋を通って若松入り。国道495号経由で街の外周を巡り、北湊から中川通り経由で本町へ折り返す。最後は若松南海岸を若松渡し場まで。この日、若松はゲリラ雨だった。
2008年9月10日撮影
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