2010年10月30日更新
資源小国にありながら良質な天然鉱物に恵まれた関門地域では、人間が蝕んだ山を日常生活の場から眺められる。平尾台は石灰のほかに、かつて石炭、金、銅、水晶などを産出した。これらの資源はいまだ地下奥深くに眠っていそうだが、いずれにせよコストで輸入品に対抗できないため現在採掘は行われていない。
石灰に限っては他の資源と違って露天掘りで無尽蔵に採れることから閉山の恐れはなさそうだ。先日閉鎖された香春太平洋セメントや三井鉱山セメントも鉱山部門は継続になった。産業と雇用はにべなく切り捨てられたが、山々はこれからも切り崩される。
平尾台を横断する県道28号直方行橋線を北九州側から上ってゆく道すがら眺められるのが住友大阪セメント小倉鉱山だ。国道322号からは南隣りの三菱マテリアル東谷鉱山と並んで見える。三菱マテリアルが原料を12キロのベルトコンベアで苅田臨海部の同社九州工場や事業連携先の宇部興産苅田工場へ直輸送するのに対して、住友大阪セメントは山元の小さな工場で一次加工する。
小倉鉱山の採取品目は石灰石とけい石。生産量90万トン/年は、三菱マテリアル東谷鉱山の1/10以下の規模。現場は小倉興業平尾台採掘現場事務所が受託する。
小倉鉱山の位置は図の通り。茶色の点線は鉱山内の砂利道で、当然ながら部外者が自動車で入ることはできない。緑の点線はわたしが歩いた自然遊歩道だ。吹上峠駐車場から馬ノ背台の頂上までは等高線からして高低差が100mほどあるが、健脚なら10分あれば登れる。なだらかな平尾台が北壁で急激に低地へ落ちるさまが眺められる。
銀色の点線部分は草地であり、歩ける道はない(が、わたしは草地を泳いで渡った)。この日は鉱山の見学に来たのではなく、早朝の月食を追いかけて馬ノ背台に登った。月は朝もやに隠れて見えなかったが、眼前には鉱山があった。
鉱山の採掘はベンチカット方式(段階状に山を切り取っていく採掘法)。発破をかけて起砕し、重機で細かく砕いてゆく。この方式はもっとも安上がりで、圏内で見られる石灰鉱山はどれもこの方式を取り入れる。香春岳は山頂がまったいらに見えることから別の方式のように見えるが、内側に切り込んで凹んだ形になっている。写真1を圧倒的大規模にした感じだと思ってよい。
写真では採掘規模が掴みにくいが、写真1の現場事務所の右側に駐車する自動車を見ればおおよそが分かる。鉱山現場で使う重機は、工事現場で見かける重機とは似て非なる化け物だから、参考にしてはいけない。
小倉鉱山には身投げするのに打ってつけの天空の展望台があり、400mほど下の工場が足元に見える。しかし見たところ櫓はあるが焼成炉(キルン)はなく、工場らしい構造物も見当たらず、重機用の車庫と白い作業場が見えるのみだ。この自称工場は単なる選鉱場ではないか。
あちらに見えるのは西村採石所。関門地域は地質が抜群によいため、二束三文で買い叩かれた山がむやみやたらと削られてゆく。北九州市は太刀浦にある採石場跡で修景のあり方を検討しているそうだが、それ以前の問題として、砕石権や鉱山権を個別の経済活動と割り切って野放しにしたままでよいのだろうか。
失われた自然財産は二度と取り戻せない。現在の需要を考えれば各地で山々を虫食いにする必要はなく、権利を一元化して現場を集約すべきではないか。環境首都の名を騙るのなら、公害の克服ばかり強調していないで、自然財産の保全でも先導的な役割を果たしてもらいたい。
鉱山の片隅でこんなものを見つけた。遠隔操作ができなかった時代は、ダイナマイトを仕掛けた後、この避難所へ逃げ込んだのだろう。鉱山が人夫で溢れ、活気のあった時代が偲ばれる。
それにしても、きょうびの鉱山はひと気が感ぜられない。この現場は十数人で作業しているのだろう。北九州の産業は鉱山に限らず、本当に人手を必要としないものばかりになった。
鉱山の粗末な正門は平尾台自然の郷正門の100メートルほど手前、市道新道寺110号線沿いにある。入口奥には祠があり、「保安第一」と書いた看板塔に表示した無災害日数は2477日とあった。鉱山は格段に安全になったとはいえ、現場がいまも危険を孕み、死と隣り合わせであることに変わりはない。
撮影 2004年5月5日 | 作成 2004年7月7日
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Sumitomo Ôsaka Cement Kokura Quarry