2007年7月14日更新
ます渕ダム(鱒渕ダム)の歴史は約100年前まで遡る。現在は弓形をなす貯水池の西側部分を門司市が上水道確保のため堰き止めたのは1912年だった。当時の門司市は大陸植民地への玄関にして西日本の中枢拠点だったが、企救半島は水資源に乏しく、その確保には苦労が多かった。福智貯水池は後のます渕ダム建設のため、堰堤が撤去されて現在は存在しない。
さらに門司市は1939年にます渕貯水池の東側部分を堰き止めて頂吉貯水池を建造した。こちらは現在も堰堤が所在なさげに残る。ます渕ダムの貯水池が稀に「門司貯水池」と呼ばれるのは、門司市のダムだったころの名残だろう。
福智貯水池と頂吉貯水池からの流れが合流する狭い渓谷を堰き止めた第三のダムがます渕ダムだ。現在は北九州市のおいしい水の源として重宝される。建設から23年が経過してダム設備が老朽化したため、2006年度から堰堤改良工事に入った。完工は2011年3月予定。
北九州市は工業都市で水資源の消費量が多く、水源確保のため古くから尽力してきた。しかし全体の半分が遠賀川河口堰で汲み取った水だから品質がよくない。ます渕ダムでは第四のダムを建設する計画がある。八幡西区へます渕のおいしい水を供給し、遠賀川河口堰のまずい水は福岡地方へ売水したい考えだ。
ます渕ダムは、紫川水系紫川の多目的ダム。用途は、洪水調節、灌漑用水、水道用水、水力発電。水は井手浦浄水場を経由して八幡西区を除く市内へ供給する。発生した電力は場内で活用し、余りは九州電力へ売電する。
ます渕貯水池の堰堤は高度成長期の無個性・無愛想・無装飾の三拍子が揃った実用一辺倒の土木構造物だ。両側から切り立った渓谷が迫り、堰堤の高さは20階建ての高層マンションに相当する。絶対的な規模は大きくないが、親しみを感ずる部分が皆無で押し出しだけが強いから、見上げればなにか空恐ろしい印象を受ける。
ます渕ダムが竣工した1973年は、北九州国定公園が指定された翌年に当たる。北九州国定公園は、国立公園に準じる景勝地として認められたのではなく、大都市圏住民の憩いの場、都市環境を保全する緑地帯という特殊な位置づけで指定された。この観点はます渕ダムにも採用され、高度成長期の合理主義の産物ながら、市民の憩いの場にしようという工夫が見受けられる。
ます渕ダムをぐるりと囲んで、一周10.3キロの自転車道路が整備された。これに伴い、歩行者・自転車専用の吊り橋・ます渕橋(1973)と、主塔に道路を巻き付けた螺旋橋が建設された。この二つの橋梁がます渕の土木の見所だ。
前者は単径間の赤い吊り橋で、主塔はあるが橋台がなく、主索は両岸の岩場に固定する。耐風索で横揺れを防ぐ仕組みと併せて、吊り橋とはどういうものかを知るのに便利な橋だ。橋の中央で身もだえしたら橋全体が揺れるのではないかと思い立ち、主索をつかんでじたばたしたが、揺れ動くのは自分だけだった。
後者は一見するとダムの設備かなにかのようで、橋には見えない。それはそうだろう。橋というのは通常水平方向に架かるもので、上下に架かる橋は珍しい。いくつも桁があるのなら螺旋橋だと知れるが、これは自走式の立体駐車場の昇降路(ランプ)だけが残ったような奇妙な構造物だ。
旧頂吉ダムは弓形をなす貯水池の東側を堰き止める。構造は重力式コンクリート形式のようだ。表面は河内貯水池の河内堰堤と同じく石を張って仕上げる。ます渕ダムの完成を受けて堤体の一端に水路を通し、満水時は頂吉貯水池からます渕貯水池に水が流れる仕組みになった。堰堤の上流側はコンクリートで大幅な改修が施された。
旧福智ダムが撤去されて、旧頂吉ダムが残った理由は定かでない。貯水池は頂吉堰堤がなくてもます渕堰堤で支えられる。貴重な戦前の土木構造物をそう簡単に撤去されては困るが、貯水池を仕切ることで頂吉側の湖水が滞留し、小さな溜池のように水質が低下する。魚が寝てすごす冬季に藻類が大繁殖し、富栄養化が進むことは上のグーグル衛星写真で知れる。
北九州は冬季に少雨となる気候だから、冬場は貯水率が低下して頂吉貯水池からます渕貯水池へ水が流れない。堰堤としての役目は終えたのだから、底に穴を穿つなどして水通しを確保したほうがよいのではないか。
撮影 2007年4月29日 | 作成 2007年6月30日
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