ガゾーン関門都市圏

2007年7月15日更新

新日本製鐵 河内貯水池 1/2

設計・施工
官営製鐵所(現、新日本製鐵 八幡製鐵所)
竣工・規模等
1919年着工、1927年竣工、総工費430万円。堰堤=粗石コンクリート(表面布積)重力式ダム、堤高44.1m、堤頂長189m、頂上幅3.5m、最大底幅35.1m、堤体積6万8400m3、総貯水容量700万m3
場所
北九州市八幡東区大字大蔵

官営製鉄所の水源

鉄鋼生産は冷却や洗浄などの工程で大量の水を必要とする。官営製鐵所が八幡に建設された主たる理由は洞海湾と筑豊炭田があったからだが、もう一つ忘れてはならない理由があった。八幡は西に遠賀川、東に紫川が流れ、水源確保が容易だった。背後が山塊で、近場に貯水池を建造できる地の利もあった。

官営製鐵所の水源開発は1900年の大蔵貯水池に始まる。大蔵貯水池は河内貯水池と同じく板櫃川を水源としたが、現在は存在しない。翌年には山ノ神渓水を水源とする通称「六角池」が築かれた。黎明期の水道施設は試験操業に伴うものだから、開発規模は小さかった。

1906年に鋼材年産18万トンを目標とした第一次拡張計画が帝国議会で承認され、官営製鉄所は試験操業から本格操業へ移行した。これに関連して1910年に遠賀川の川べりにポンプ室を設けて大規模な水道施設を整備した。後に紫川にも同様のポンプ室をつくり、紫川水源として整備した。

河内貯水池は1918年の鋼材年産65万トンを目標とした第三次拡張計画に従い、遠賀川水源の新しい調整池となる養福寺貯水池とともに建設が決定された。河内と養福寺は官営製鉄所の土木技師、沼田尚徳の指揮の下、同じ設計思想によって建造された双子だ。背景には1914年に勃発した第一次世界大戦による鉄鋼需要の増大があった。

官営製鐵所は「殖産振興、富国強兵」の原動力であり、わが国の軍需産業の基幹工場として潤沢な資金が割り当てられた。この資金力を背景に、沼田尚徳は「土木は悠久の記念碑」というヨーロッパ思想を汲んで、意匠を凝らしたヨーロッパ趣味な構造物を芸術作品よろしく築いた。ただ、あまりに美観にこだわるものだから、現地視察に来た当時の会計検査院の役人に「贅沢すぎる」と叱責されたそうだ。

この時期の大規模土木工事は殉職者がつきものだが、延べ90万人を動員して人力作業で建造したにもかかわらず、亡くなった方はいなかった。

河内堰堤

河内貯水池は、板櫃川水系板櫃川の民間企業所有ダム。公設のダムはもっぱら多目的ダムだが、河内貯水池は八幡製鐵所が利水権を100%握っており、灌漑用水、水道用水、水力発電などの用途はない。

外観はヨーロッパの城壁風。堰堤の中央にあるのが取水塔で、「風雨龍吟」の銘板を掲げる。ここから水路と鉄管を繋いで八幡製鐵所へ水を導く。豪雨により水位が急速に上昇した場合は左岸の溝に水が流れ込み板櫃川へ滝となって落ちる。この放水路は仕組みが簡単なのがよい。

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堰堤は着工時点では東洋一の規模を誇った。粗石コンクリート重力式ダムというのは現在の重力式コンクリート形式と構造は同じだが、当時はまだコンクリートが貴重で高価だったため粗石を混ぜた。表面を覆う切石は建設時にコンクリート型枠の役割があったが、基本は化粧材だ。自然石は人工素材と異なり歳月で劣化しないため、悠久を表現するのにふさわしい。

「温度荷重対策として、伸縮継手が堰堤縦断面方向に水平距離22.5mの間隔で6箇所設けられ、7ブロックに区分されている。継手面にはコンクリートブロックが積まれ、その一部に凹部を設け、漏水防止用の銅板が埋め込まれている。同時に他の空隙部には絶縁用塗料が充填されており、70余年を経た現在も、この継手からの漏水は認められていない」(国土交通省)。

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堰堤に付着する白い汚れは、鳥の糞で石材にシミがついたのではないか。放水路の上げ裏などが白いのは、コンクリートがカルシウムや塩化カリウムを噴出した跡だろう。鳥の糞まみれも嫌だが、コンクリートが劣化しきっているのも興ざめる。放水路の打放しコンクリートはもはや土くれのようで、ある日ぼろりと崩れるかもしれない。

堰堤の階段を見ればこの施設がいかに手入れが悪いかが分かる。枯葉が何層にも積もっているのだから、何年も掃き掃除さえしていないことが明白だ。付近には二輪車の残骸や大型ゴミが点点と転がっており、ここは廃棄物処分場なのかとひとしきり嘆いた。

弁室

河内堰堤の堤頂から見下ろすと麓に長方形の箱がある。水道施設は要所ごとに水圧や水量を調整する弁があるが、この長方形の箱が河内水源で最初の関門となる弁室だ。他に弁室があるようには見えないから、この破れ屋がいまも稼動施設だろう。

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建物は緩い斜面にあり、板櫃川側は土台が分厚い。この分厚い土台と円形アーチの窓枠、建物の外枠に白い石を用い、他は河内堰堤と同じ黒っぽい切石で表面を覆う。形や大きさがまちまちの切石でかくも見事に壁面を仕上げた先人の技は素晴らしい。玄関の上には「萬古流芳」(中国語で「永遠に名声を残す」の意)の銘板を掲げる。

惜しむらくは、構造が鉄筋コンクリート造なことか。当時は鉄筋もコンクリートも貴重で高価な素材だったが、鉄筋コンクリート造を数百年間にわたって保存するのは難しい。河内のコンクリートは劣化した状態だから、この建物はすでに内部の鉄筋が腐食している恐れがある。石造ならその気になれば千年だって保存できた。

減勢池

減勢池は放水路から勢いよく落下してきた水を受け止める池で、堰堤の下流に設ける。河内堰堤の減勢は「跳水式」というが、ここは放水を制御する仕組みがなく、溝に入った水が流れ落ちるだけの自然越流だから、これを受け止める減勢池も自然体だ。

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ます渕ダムの減勢池は堰堤直下の線上に展開され、その小ささと相まって跳水を発生させて無理やり減勢させる仕組みだと見て取れる。河内貯水池の減勢池は放水路が横腹に突っ込む配置で、減勢させるという印象は薄い。貯水容量が大きいため、放水路からの水流を吸収するのではないか。

副ダムは河内堰堤と同じく表面は切石で覆う。堤頂から自然越流する姿は、自然に溶け込んで慕わしい。

太鼓橋

太鼓橋は減勢池の副ダムのやや上流に架かる。河内貯水池の土木としては唯一、設計者代表として沼田尚徳ではなく草場助士郎の名が記される。鉄筋コンクリート造の床版アーチ橋で、長さ30m、径間28m、厚さ30cm。もちろん歩行者専用の橋だ。「アーチは弓なりになった1枚板の薄肉で、イギリス・ニューアーク川のフィドラー弓橋に瓜二つ」(九州建設弘済会)という。

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横から見るとこんな薄っぺらいので大丈夫かと危ぶむ。動線上に立つと結構がっしりした橋だ。床版の上面は右岸(東)入口に階段が7段、左岸入口に階段が6段、中央部は平面仕上げになる。左岸の階段が少ないのは、後の河内桜公園の造成で根元が埋まったのではないか。

桜吊橋

太鼓橋から右岸を下流へ100mほど進むと、亜字池噴水の手前に桜吊橋が架かる。河内桜公園から亜字池噴水への散策路の一部で、右岸には木製展望デッキもある。この橋は北九州市が公園造成に伴って架けたもので、官営製鉄所の建造物ではない。

単径間の木造吊り橋で、主索は両岸の斜面に固定する。耐風索で横揺れを防ぐ仕組みも備える。橋の中央でじたばたしなくても、歩くだけでゆらゆらする遊具の橋だ。

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亜字池噴水

亜字池は河内貯水池の水を空気にさらす(曝気する)ための水処理施設だ。現在この噴水池は稼動していない。名は池の形が旧字体の「亞」の字に似ていることからついた。

曝気することで水の臭いを取ったり、空気を吹き込んで水分中の酸素量を増加させたり、水に含まれる植物プランクトンの細胞を破壊・損傷させたりと効用はさまざまあるようだが、鉄鋼の冷却や洗浄に使う工業用水でこういう処理が必要な理由は調べても分からなかった。稼動時はすばらしい見ものだった。

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亜字池のほとりに堰堤下の弁室と揃いの建屋がある。かつては噴水の調節弁が中に収まっていたろうが、現在は河内桜公園の物置かなにかに使われているようだ。

構造は石張りの鉄筋コンクリート造。弁室とやや異なるのは石材で、土台や円形アーチの窓枠、建物の外枠にも本体の細かい切石と同じ黒っぽい石を用いる。破れ屋と化した堰堤下の弁室よりも保存状態がよく、全身を黒で統一した外観は引き締まって格好がよい。この建物には銘板がない。

弁室は全部で三つあった。残り一つは三方弁室といい、太平洋戦争のときに爆撃されて残骸となっている。

水路

亜字池で曝気した後は、いよいよ水が水路に入る。亜字池の隣に架かる大河原橋がその出発地点だ。ここから水道橋と水路を繋いで、直線で約2.5キロ北の大谷貯水池へ導水した。大谷貯水池はマンションの屋上にある高置水槽のようなもので、重力を利用して丘の下の官営製鉄所へ給水した。

水路を通すというのどかな事業は、気象の激しい北九州には向かなかった。渓谷の谷間を通る上流域はいいが、下流域は大蔵の丘の上を通るのだから、台風被害などを受けることが多かった。1970年代から下流域を水道トンネルに振り替えて、遊休化した部分は蓋を被せて自転車道路につくり変えた。水路跡に関しては北九州のあれこれに優れた記事がある。

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写真は上から、大河原橋、南山の田橋、中山の田橋。大河原橋と南山の田橋は現役の水道橋、中山の田橋は自転車道路になった橋だ。水路橋はこの三つだけではなく、まだいくつもある。

現役水道橋はどちらも橋の上に波形トタンを被せる。かつては水路をさらさら水が流れる様子が眺められた。現在はセメント工場のベルトコンベア橋のように味気ない。沼田尚徳は土木を美を求めた。美は造形だけでなく、噴水に見られるように演出でもあった。沼田の志は新日鐵には受け継がれていない。

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第一部では河内堰堤より下流にある土木を紹介した。第二部では堰堤より上流にある土木を紹介しよう。

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資料

参照記事(外部サイト)
戦前絵葉書 9. 水道 - 土木学会図書館
河内地区編 - 産業考古学研究室
河内貯水池 - 九州の近代土木遺産
土木遺産リスト - 九州建設弘済会
116~123頁、186~190頁 - 北九州の近代化遺産
八幡製鐵所 - 新日本製鐵
関連項目(ガゾーン内)
特集 ます渕ダム - 紫川水系紫川の多目的ダム。北九州市の水源。

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