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2007年7月29日更新

新日本製鐵 河内貯水池 2/2

設計・施工
官営製鐵所(現、新日本製鐵 八幡製鐵所)
竣工・規模等
1919年着工、1927年竣工、総工費430万円。堰堤=粗石コンクリート(表面布積)重力式ダム、堤高44.1m、堤頂長189m、頂上幅3.5m、最大底幅35.1m、堤体積6万8400m3、総貯水容量700万m3
場所
北九州市八幡東区大字大蔵

管理事務所

河内貯水池の管理事務所は河内堰堤左岸の駐車場から階段を上った小高い場所にある。公設の多目的ダムは24時間体制で人が詰めているが、ここは監視員が常駐しているようには見えない。

建物はきれいな円筒形で、周囲をぐるりと巡っても箱型の部分はない。玄関の上に「遠想」の銘板を掲げる。規模は堰堤下の弁室を2階建てにした程度か。目を引くのは外壁に張り詰めた玉石だろう。弁室で採用した切石は化粧材として使えるように粉砕してあった。玉石は無加工の自然石そのものだ。

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大小の玉石ででこぼこした外壁を間近に見つめると、とても建造物の壁には見えない。さらに近寄って石の隙間を覗けば小さな動植物が目に留まる。いまにも崩れ落ちそうに見えて、しっかりと形を留めているさまは魔法の世界の建物のようだ。まあ、実際の構造が石張りの鉄筋コンクリート造だと知っていれば、べつだん驚きはないのだが。

内部はどうなっているのだろうと窓から中を伺うと、1階はシータ(Θ)状の配置だった。玄関から入ると真ん中に階段があり、上の階に上がれる。この階段室の平らな壁を背中にして、大型の戸棚や制御装置類を並べる。外周は窓があることもあり、小さな棚などを並べる。内部はこぎれいで、窓際にはタオルなどが干してあった。

主弁用調整槽

管理事務所から黄色い手すりを頼りに山道をせっせと登ってゆくと、山の急斜面に主弁用調整槽がそそり立つ。主弁用調整槽というのは、水圧を利用してダムの主弁を操作する装置だそうだ。水洗便器のような仕組みと考えるが、わたしには説得力のある説明ができない。

構造は他の建造物と同じく石張りの鉄筋コンクリート造だろう。表面を覆う切石は堰堤下の弁室や亜字池の弁室と同じだ。この円筒状の構造物は管理事務所と形がよく似ている。設計主任の沼田尚徳には両者を揃いにする意図があったのではないか。

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沼田尚徳は管理事務所から主弁用調整槽へいたる山道に石畳を敷き詰め、途中に展望広場もつくるなど、管理事務所一帯を庭園化したようだ。いまは単なる山中と化したこの場所を訪れると、用済みになった装置の悲哀を感ずる。水を貯えた様子からは稼動中に見えるが、現在ダムの主弁は電気仕掛けだそうだ。調整槽に接続する溢水用らしい水路は奥のほうが決壊していた。

周囲の樹木が育つまでは、堰堤あたりから見上げれば山中に主弁用調整槽が見えた。往時は河内貯水池の重要な景観要素だったろうが、現在は樹木に隠れてその存在は窺えない。新日鐵からは見捨てられ、市民もやがて忘れてしまった。

河内五橋

河内貯水池の河畔を通る県道62号の橋を「河内五橋」という。北から列挙すれば、北河内橋、中河内橋、南河内橋、水無橋、猿渡橋。河内堰堤より上流にある道路橋ということになる。

場所を移して架け替えられた水無橋を除けばみな健在だが、道路拡幅に伴い新旧の橋が対になっている。唯一例外の南河内橋は道路が貯水池を迂回して歩道橋になった。

北河内橋

北河内橋は河内貯水池に流れ込む小川の河口に架かる。鉄筋コンクリート(RC)造の上路式アーチ橋。径間18.8m。幅員12.9m。片持ち梁(カンチレバー)のアーチだそうだが、こんな小さな橋でカンチレバー工法を用いて架設した理由が分からない。カンチレバーは彦島大橋(1975)のような長大橋で採用して意味がある。純粋な技術的好奇心だろうか。

なお、写真には増設された石張りRC造の上路式アーチ橋が写る。他の橋の増設と比較すると新しく、粗製濫造ではない。

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中河内橋

中河内橋は河内貯水池に流れ込む南河内川の河口に架かる。通称「めがね橋」。眼鏡が三つ目なのはおかしいのではないかと難癖をつけて、南河内橋を眼鏡橋を呼ぶ向きもいる。ちなみに「左手小島の向こうにはさらに一連のアーチがあり、(略)これと合わせて『中河内橋』として構成されている」(産業考古学研究室)。この橋は手前の道路がうまい具合に曲がっているため見学しやすい。

石張り鉱滓煉瓦造の上路式四連アーチ橋。長さ46.5m。幅員10.6m。鉱滓煉瓦は八幡製鐵が生産工程で出した残滓を再生利用したもので、白っぽい煉瓦だ。表面仕上げは、輪石や壁石、橋台、橋脚が自然石(玉石)積み、欄干は河内堰堤の欄干と同じく細く削り取った切石を用いる。以前の中河内橋は三連+一連アーチが一体美をなしたが、現在は写真右側に余計な護岸をつくって台無しにした。

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鉱滓煉瓦とかけて、砂上の楼閣と解く。その心は、ぼろぼろ崩れる。実際、鉱滓煉瓦造の建物はぼろぼろ崩れて、もう指折り数えるほどしか存在しない。

鉱滓煉瓦はコンクリートと同じく水に浸かっていれば劣化の進行が遅いそうだ。この橋は満水時は六合目あたりまで沈むから、劣化の進行は遅かろう。しかし築80年ともなると一抹の不安を覚える。こんな風に橋脚が露出した状態は望ましくない。水に浸かってぷかぷか浮いているような状態だと中性化が進まないし、浮力が働いて構造材を痛めない。

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現在の中河内橋は南河内川の上流側に鉄骨造の桁橋を追加し、幅員を倍(2車線)に拡幅した。上流側から見ると、やっつけ仕事の桁橋と対にされた姿が切ない。

南河内橋

河内五橋のうち、南河内橋だけが河内貯水池に流れ込む小川ではなく、貯水池を跨いで架る。設計は沼田尚徳と、同僚の足立元次郎の指導監督の下、製鉄所技手の西島三郎が手がけた。2006年に10枚の設計図とともに国重要文化財に指定された。

日本に残存する唯一のレンズ形トラス橋。鉄骨造で、ピン結合。下路式。橋長132.97m。幅員3.6m(有効3.06m)。径間数と支間長は2×66.0m。ゴシック風の橋門構を持つ。両端の橋台と中央の橋脚は切石積みコンクリート造。通称「魚形橋」「めがね橋」。もともとは道路橋だが、現在は歩道橋として利用する。

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レンズ形トラス橋というのは、日本に近代産業が興る前の19世紀の一時期に欧米で熱病のように大流行した形式だそうだ。上弦と下弦のアーチを上下に組み合わせて紡錘形の安定構造をつくり、垂直材で床版を吊る。床版を吊るのなら吊り橋にすればいいし、トラスなら普通に三角形のギザギザにすれば別途床版を組まなくてよい。もしかして、無駄なのではないか。そんなわけで高熱が引くとあっという間に廃れた。

1920年代にわが国で突如三つのレンズ形トラス橋が架けられたが、当然に生まれながらにして「時代錯誤的な構造」(土木学会)だった。しかし技術的にはおもしろい構造で、官営製鉄所の遊び心が感ぜられる。当事者もレンズ形トラス橋なんてこれが最初で最後、河内貯水池の主役たる橋は希少価値のある形式がよいと考えたのではないか。

新日鐵が生産の主力を大分と君津へ移したのは前世紀の話だ。昨今は重厚長大産業の復権で新日鐵も好業績を享受するが、八幡を切り捨てる方針に変わりはない。従って、八幡での新規の投資や雇用には消極的で、いまある生産設備を使い倒しつつ、人減らしの手を緩めない。君津や大分では大型投資が相次ぐが、八幡では退職者を呼び戻して前世紀の休止設備を再稼動するなど、まさにその場しのぎの操業を続ける。

結果、八幡製鐵所に限らないが、北九州の重厚長大産業は操業中の爆発事故や死亡事故が多発して、きわめて危険な状態に陥っている。わたしは門外漢だから八幡製鐵所の構内には立ち入ったことがない。しかし今回初めて新日鐵が所有する稼動施設である河内貯水池を見て回り、噂と違わない現場軽視の実態に驚きを禁じえなかった。

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河内貯水池が決壊すれば下流域で相当数の人間が死ぬ。危険な稼動施設にも関わらずまともな監視体制がなく、草薮で歩くこともままならず、ゴミ溜めと化した糞まみれの堰堤下をとぼとぼ歩きながら、その危機管理の欠如に身の毛がよだつ思いがした。管理事務所に自らの書「遠想」を掲げた沼田尚徳は、河内の草陰で泣いていよう。

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撮影 2007年4月9日 | 作成 2007年7月29日

資料

参照記事(外部サイト)
戦前絵葉書 9. 水道 - 土木学会図書館
河内地区編 - 産業考古学研究室
土木遺産リスト - 九州建設弘済会
116~123頁、186~190頁 - 北九州の近代化遺産
河内貯水池 - 河内小学校
関連項目(ガゾーン内)
特集 ます渕ダム - 紫川水系紫川の多目的ダム。北九州市の水源。

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