ガゾーン関門都市圏

2008年10月27日更新

北九州(曽根)空港

種別
第2種A空港 D級(2006年3月15日廃止)
現況
廃止、空港面積61万0190㎡、滑走路1600m×45m、方位11/29(オーバーラン 60m×45m)、ターミナルビル=RC造 平屋 延床2000㎡、附属棟 延床50㎡、駐車場155台
場所
北九州市小倉南区大字曽根2641
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北九州(曽根)空港 管制塔

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平屋の旅客ターミナル

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搭乗待ちの旅客で混雑する旅客ターミナル内

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階段のないバリアフリーの搭乗口

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出発は空港関係者全員が並んで見送る

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東京へ向けて飛び立つ

あらまし

北九州(曽根)空港は、2006年3月16日の新北九州空港開港により廃止された空港。運用時の空港種別は第二種A空港。3桁コードはKKJ。4桁コードはRJFR。第二種空港は「主要な国内航空路線に必要な飛行場」と定義され、Aは国、Bは地方自治体が管理する。

空港種別では福岡空港などと並んでわが国の主要空港の扱いを受けるが、空港施設は第二種空港の水準からは程遠い。旅客便が就航する第二種空港で滑走路が2000mに満たないのは北九州空港だけだ。平屋の旅客ターミナルは郊外の鉄道駅といい勝負だろう。

沿革

曽根飛行場は1944年に旧帝国陸軍の本土決戦に備えた戦闘機基地として開港した。1937年から学徒動員によって曽根塩浜跡で造成を始め、強制連行した朝鮮人を投入した記録も残る。1945年の終戦により連合軍に接収されて米国陸軍の管理となったが、1953年の接収解除により飛行場の一部が解放された。

1956年に日本ヘリコプターの小倉―大阪線が不定期便として就航、1957年に公共用飛行場の告示がなされ、1500m滑走路の小倉飛行場が誕生した。第二種空港の指定は翌1958年で、この年は全日空の小倉―岩国―大阪線が小倉飛行場初の定期便として就航した。

小倉飛行場の最盛期は保安事務所小倉出張所が小倉航空保安事務所に昇格した1961年に始まり、山陽新幹線が開通した1975年に終わる。この時期は定期便として小倉―大阪線、小倉―熊本―鹿児島線、小倉―広島線、小倉―宇部―東京線、福岡―小倉―松山線などが開設され、繁忙な空港だった。

小倉飛行場は1973年の北九州市発足10年を記念して北九州空港と名称を変えた。この年の旅客輸送実績は大阪線と松山線の2路線で約27万人。当時としてはまあまあの水準だ。定期便が全廃されたのはそれから10年後の1983年だった。

なぜ曽根の空港を捨てるのか

日本の空は1960年代がプロペラ機からジェット機への移行期にあたる。滑走路がわずか1500mしかなく、ジェット機が離着陸できない北九州空港は、山陽新幹線の開通を持ち出すまでもなく未来のない空港だった。北九州空港には選択肢が二つあった。滑走路を延長するか。空港を移転するか。

周防灘沖合いで新空港建設に乗り出した理由として繰り返し述べられるのは、北九州空港の気象条件の悪さだ。空港は東端が周防灘に面し、西は皿倉山、南は貫山、北は足立山に囲まれ、局所的に濃霧が発生する。このため、北九州空港は突出して就航率が低かった。飛ぶか飛ばないかが五分五分では定期便は役割を果たせない。

もう一つの理由は操縦士に「日本一着陸が難しい」と言わしめた立地条件だ。足立山の山裾にある空港は陸側からの着陸が特に難しく、気流が不安定な関門の山間を低空で旋回した挙句、空港前を横断する関門連系線(500KV超高圧送電線)の上空を掠めて、着陸するや否や滑走路が短いため逆噴射しなければならなかった。

北九州空港は廃港の日まで熟練操縦士が二人がかりで操縦して着陸させる必要があった。この空港で路線拡大がかなわなかったのは、就航可能な機材がないことに加えて、熟練操縦士の確保が難しいという事情もあった。

しかし周防灘沖合いに新空港を建設することになったのは、当時の時代背景が大きい。1963年に世界を驚かせた五市合併により北九州市が発足した。北九州市は名実ともに西日本最大の都市になったと強い自負を抱いたが、産業は疲弊の度合いを深め、人口の社会動態ははや1965年に減少に転じて、内実は暗澹としていた。

1972年に田中角栄が日本列島改造論をぶった。北九州市の強い自負心と焦燥感が土建開発の時代とめぐり合った結果として生じたのが新北九州空港だ。当初の構想は周防灘に滑走路4本の巨大国際空港を建設するというものだった。ハブ空港になりえない曽根飛行場は、はじめから眼中になかった。

暫定開港の功

北九州空港の再開は1988年に新北九州空港が開港するまでの時限措置として決まり、翌1989年に曽根干潟側の土地を収用して滑走路延長工事に着手した。1991年に1600m滑走路の運用を開始、日本エアシステムが小型ジェット機のMD-87型機を投入して北九州―東京線を開設した。1500m滑走路からプロペラ機の定期便がなくなって8年が経過していた。

北九州市は当初、北九州空港の再開に強く抵抗した。この空港が既成事実になるのをひどく恐れた。しかしとある大物政治家が末吉興一市長にこう話したという。「新北九州空港の建設は確約する。安んじて現空港を再開せよ。定期便がないまま放置しておくと、航空管制官が引き上げてしまうぞ」。

航空機の離着陸を許可する航空管制官は北九州空港を再開した年に廃止され、管制圏も廃止された。空港を管理する人員は豊富とは言えず、無駄を容認する余地は小さい。一度失った人員を取り戻すのがいかに難しいかは、新北九州空港に航空管制官の配置が認めらず、福岡空港から指示が下りることになったことからも知れる。北九州空港を再開しなかった場合、あらゆる人員を完全に失う恐れがあった。

暫定開港の罪

時限的再開により空港機能は最小限温存されたが、北九州空港の存在は「西日本国際空港」への道のりを険しくしたのも事実だ。年間旅客実績15万人(2000)という無残な数字は、新北九州空港反対派の格好の攻撃材料であり、新北九州空港推進派には負い目だった。

新北九州空港は1999年の台風18号で被災し、護岸や仮設道路が流出して工事が中断した。2002年には福岡県や福岡経済界が新福岡空港構想を打ち出した。九州地方整備局の事業評価監視委員は「新北九州空港の工事を打ち切って、新福岡空港の建設に切り替えるべきだ」と意見した。福岡県は新福岡空港の調査を口実に、3000m滑走路の撤回を迫った。

「市街地の便利な空港で年間旅客数が15万人しかいないのに」という見くびりがもたらした不利益は計り知れない。北九州空港が存在したばかりに、新北九州空港は小さな物差しを当てられるようになった。すべてが呆れるほど小さくなった。これが北九州空港を温存した罪の側面だ。

廃港と跡地利用

新北九州空港の滑走路が南北方向なことから、北九州空港を東西滑走路として残せないかと意見した方がいるが、新北九州空港で離着陸する旅客機は北九州空港の短い滑走路では離着陸できない。

空港跡地は「北九州空港移転跡地利用まちづくり構想策定委員会」が開発構想をまとめた。商業複合エリア、医療生活エリア、農地保全エリアなどに区分けして土地区画整理事業を行う。空港跡地は都市基盤がないため、なんらかが出現するには10年の歳月が必要だろう。商業複合エリアにはダイヤモンドシティ進出のうわさがある。

日本の主要な大都市は人口の自然減時代に突入している。北九州に限らず、拡大志向の郊外開発は改めなければならない。北九州空港跡地に新しい町をつくろうという発想は先見性がなさすぎる。土地を塩漬けにするという選択肢があってしかるべきではないか。

2006年3月18日作成

資料

参照記事(外部サイト)
概要 - 北九州エアターミナル
関連項目(ガゾーン内)
山口宇部空港 - 山口県の拠点空港。2500m滑走路が1本
新北九州空港旅客ターミナルビル - 拡張性に配慮。計画規模の約半分。
関門連系線 - 500KV超高圧送電線。西進入する航空機を通せんぼ。

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