2010年4月25日更新
門司区の関門海峡沿いは日本近代化の黎明期に成立した工業地帯である。企救山系の山裾がそのまま海峡に落ちるため土地の狭隘さがはなはだしいが、どの工場も等しく埠頭と鉄道に挟まれて物流には都合がよかった。洞海湾や響灘と異なったのは、目の前が日本で有数の海上交通量を誇る狭い水道で、海を埋め立てられなかったことだろう。これがその後の命運を分けた。門司は大産業時代に対応できなかった。
かくして黎明期の工場は世代交代することなく朽ち果て、工業地帯は廃墟と化した。日本セメント門司事業所もその一つである。
門司事業所は1893年に浅野セメントとして操業を始めた。同社は戦前の浅野財閥の中核企業。工場は風師山の山裾が関門海峡に落ちる場所にあり、山の斜面から海岸にかけて生産設備が濃密に建て込む。敷地の中程をJR鹿児島線が縦断し、国道199号の反対側には西海岸埠頭がある。
浅野セメントは1935年に筑豊の香春岳一ノ岳を開き、山元に香春工場を設置した。以降は香春鉱山産の石灰石を香春駅経由で最寄の葛葉駅(現存せず)まで運んで、門司事業所でも用いた※。ちなみに、燃料の石炭は香春工場裏の三井炭鉱 通称六坑で産出したものを使用した※。製品化したセメントは専用岸壁から移出したようだ。
門司港の中心市街地に近いことから最盛期は煤煙や降下粉塵が市民を悩ませたという。1947年に日本セメントと改称、すでに時代遅れになりながらも戦後復興と高度成長を下支えし、1980年に閉鎖された。なお、日本セメントは1998年に秩父小野田と合併して太平洋セメントになった。
2004年3月に三井鉱山セメント田川工場と香春太平洋セメント(上記、浅野セメント香春工場の後継)が内陸立地のコスト高を理由に相次いで閉鎖されたが、ベルトコンベアで鉱山に直結していない臨海工場では、やはり操業効率は高くない。いまとなっては鉱山から遠いこんな場所にセメント工場があったこと自体が不思議である。
※ 田中英之氏の情報による。
門司事業所の正門は、風師山の山腹、国道199号から国道3号へ上る区画道路沿いにある。正門前も廃墟だが、建物が残っているうちはまだいい。門司は1990年代から猛烈な速度で古い構造物が撤去され、跡地は利用されないまま草地に変わりつつある。特に小森江から門司港にかけての風師山麓は猫の額ほどの平地も存在せず、遊休地を再利用しようという動きがない。
セメント工場は全般的に質感が悪いが、門司事業所は成立が古いのが幸いして、初期の建造物は煉瓦造である。工場の心臓部は地面に横たわる赤錆びた大筒、回転釜(ロータリーキルン)4基。うち2基は付属設備が赤煉瓦で、近代化遺産として価値ある逸品だろう。工場はそののち上下左右にトタンを継ぎ足して異様な造形を見せる。あと10年早ければ全部が煉瓦造に、戦後までずれ込めば全部がトタンだったろう。
セメントは早い時期から熾烈な価格競争に巻き込まれた業種であり、コスト削減のため生産設備を安上がりに建設する必要があった。もっとも手を抜かれたのが外装材で、新しい工場になればなるほど安普請になる。セメント工場は造形的におもしろいだけに残念でならない。偉大な産業遺産になりえたのに、質感が悪いばかりに手に負えない廃棄物と疎まれる。
この工場は現在どういう扱いを受けているのかがよく分からない。調べてみると1990年にコンクリート壁や第3号サイロ頂部などの外構が補修を受けている。閉鎖されて24年が経つが、廃工場というには小奇麗すぎる。まったく手が入らなかったのなら、生産設備が蔓草で覆いつくされる程度では済まない。日本の自然の復元力は驚嘆に値する。恒見にある廃工場は構内に雑草だけでなく低木が生い茂って、もはや踏み入ることができない。
この煉瓦張りRC造の建物(1918)は区画道路に面し、敷地内に立ち入ることなく近寄って観察できる。かつては労組の事務所だった。現在は廃屋だが、実は門司事業所は現在も工場の一角に事務所を設ける。窓の中を窺うと事務所というよりは物置のようだったが、なんにせよこの工場がまだ利用されていることに違いはない。
国道199号沿いの積載場(サービスステーション)。日が暮れると無人の櫓に明かりが点り、剥げた外壁から光が漏れ、機械の鈍いうなり声が聞こえる。生産活動があるとは思わない。ただ、廃墟の一角に光が点るさまは印象的で、存在するものの無言の意志を感ずる。
この工場以前に生を受けた人間はみな滅んだ。門司事業所はわれわれの生命のスパンを超えて存在し、全機能が停止して四半世紀が過ぎたいまも息を潜めてる。
2004年7月26日撮影、2004年8月16日作成、2009年11月7日更新
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